経済学を学びたい

ここに一足の靴がある。もうここ2,3年は靴を買った記憶がない。最近同じ靴ばっか履いてるし、このままやと痛む一方なので替えに一足というわけである。ちなみに超有名、定番のこれ。[rakuten:crispin:10000159:image]

こういう昔からあるスタンダートなもの、靴だけでなくジーンズや鞄やベルトの革製品ってのは長く使えば使うほど味が出るから、大切に使いたいと思うし愛着湧いてくるし、定番をサラリと使ってるのは自分の中でかっこええので近いうちに購入しようかと思います。

今日の日記はこれ以降が主題です。

タイから帰ってきて、一冊の本を読み終えました。経済学の面白さを噛み砕いて説明している本なんやけど、頭にすんなり入ってくるし今更ながら経済学の懐の深さに気づかせてくれた一冊です。興味ある方はぜひどうぞ。まっとうな経済学

僕の好きな言葉に「一期一会」というものがあります。ご存知のとおり「出会いというのはとてつもない偶然の産物であり、無駄にしてはいけない。」そういった意味です。

上で紹介した一足の靴。アメ村のとある靴屋で出会いました。これはある意味、ものすごいことです。もう何年も前にデサインされた靴が現在のコンバースの決断によって新しいバージョンとして販売されることが決定し、おそらく米国の本社で販売計画を立てて、中国にある工場で生産を行い、コンテナ船につめこまれて日本にやってきて、港からそれぞれの販売会社に卸され、そのうちの何足かがちょうどアメ村の店舗に入ってきて、店員がちょうど僕の目の止まるところにディスプレイを行ったわけです。

本当はもっともっと複雑な要素が絡み合っているが、少なくてもこれだけの偶然が重なっていることは否定できない。複雑な経済システムの中で、我々は生かされている。このシステムが機能しなければ我々は生きていけない。

靴だと分かりにくいかもしれないが、食べ物に例えると簡単だ。今の日本では、コンビニで簡単にパンが買える。しかし、我々がいつでもパンを買えるということは、誰にも保障されているわけではない。コンビニがそのパンを仕入れるかどうかは自由であるし、物流会社がパンを生産者のところから輸送するのを断れば、コンビニにはパンが並ばない。そもそも、パンを作る・作らないのも生産者の自由である。もちろん、パンを作ろうと思ったときにはそれなりの道具がいるからそういったものがあるかどうかも・・とキリが無くなる。誰にも責任はない。

しかしこのシステムは現に成り立っている。それぞれの地点にいる各人が、自分の満足度を上げようとするからだ。自身の商売を行い、利益を上げる。好きなパンを食べて満腹になる。これはどちらも効用を上げるものである。

こう考えると、市場に携わる各人の欲に任せることで世の中は上手く回っているようにも考えられる。しかし実際は、そんなこともない。そこには国家による規則や、資源に限りがあって一部のものが希少性の力を持つこと、自分が好きなように振舞えば、どこかにそれにより迷惑を被る人がいること。様々な要因が重なりあって世の中は動いている。世の中には、上手くいっている国もあればお隣の国のように貧困の最中にある国もある。これは経済との付き合い方の是非の結果である。中国は、付き合い方が上手かったのだ。

経済は、人間の理解を超えているように思う。仕組みの一部分というのは考え、理論付けることができたとしても全体を捉えるのは不可能な話だ。経済を動かすのは人間であって、人間は必ずしも損得計算で動くものではないからだ。しかし実際には経済を上手くコントロールし理解しなければ、人生を快適に過ごすことはできないと思う。

幸福なのか不幸なのかは分からないが、我々はこういった時代に生きている。ずっとずっと昔は、それぞれの国の中でそれぞれの経済が発展してきた。大航海時代に入り、ヨーロッパ諸国が植民地を築き始め貿易が活発になり、少しずつ地域間の経済交流が活発になっていた。その利権の争いから戦争が起こり、ますます経済の重要性というのは重みを増す。そして通信分野の発展により、俗に言う「グローバリズム」の結果、経済は一つになろうとしている。

日本にいながらでも、スターバックスのコーヒーが飲める。中華料理が食べれる。ヨーロッパのブランド品を購入できる。アフリカの音楽も聴けるし、南米のサッカーを楽しめる。先進国であれば、どの国に行っても間違いなくこういったことは可能である。そうすると地域間の個性が少しずつではあるが、薄れていくと考えられている。

しかし少し考えてみると、新しい文化というのは異なる文化が混ざり合うことで形成されるとも考えられる。すこしふざけて言えば日本を話し中華麺をすするインド人と、ヒンドゥー教に改宗した日本人が話し合えば、面白い結果になると思う。

経済は新たな文化を誘発するきっかけとなり得る。経済的な思考を自分はどれだけ実践できているかについては自信が無いが、あらゆることを考える上で経済的な思考は便利なツールだ。多くの場合、人間の行動には必ず意味がある。それは無意識かもしれないが、なにかを捨て何かを選択しているのだ。

我々には多くの選択肢がある。選択肢が多く用意されている事実、その選択は自分の意思にかかっていること。そこんとこを踏まえて世の中を考えてみると、色々な面が見れて面白い。

こんなことを教えてくれた本でした。ちなみにこの日記を書きながら一枚CD聴き終わりそうです。今年一枚目ですが、なかなかヒットです。まぁこの面子で外すわけないか・・この映画のにこのキャストが組まれたことそれは何故なのか。それを考えてみる手段としてもきっと役に立つだろう。

ドリームガールズ:デラックス・エディション(DVD付)

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ever free

yosuke07142007-01-16

『この夜を突き抜けて
 目覚めれば飛べるのか
 FReeに?』

こんなメッセージを残して自ら命を絶ったミュージシャン。日本を代表するバンドのギターリストとして活躍し、解散後もソロ活動を精力的に続けていた。そんな中での、突然の死であった。

当時そこまで熱心なファンでなかったから、何で自殺したのか詳しい動機などは全く分からない。しかし一見「人生の成功者」に見える彼にも、大きな不安や悩みや迷いがあってそこから抜け出すことができなかったのではあるまいか。

きっと人間は、程度の差はあれども、不安や苦しみから切り離されて生きる事はできない。その悩みというのは、プライベートなことかもしれないしもっと大きなPublicなものかもしれない。

根っからのマイナス思考であるから、自分には常にと言っていいほど、考えていることがある。その悩みがどれだけ心の中のスペースを握るかはそれぞれやけど、ある程度結果が出るまでは頭から離れなくて、ずっとモヤモヤしている。

自分の場合は今までの人生の中で、それほど大きく悩んだ事がなかった。進路にしろ恋愛にしろ遊びにしろ家庭環境にしろ、100%満足とは言えないけど、悪くは無かったと思えるし、当たり前に当たり前のことをできる環境にあったことに感謝している。

悩みはあったのだろうけど、それが大きく化ける前に自分の力や友人の力や、その場の空気が解決してくれたのだと思う。人は一人では生きていけないと、心から思う。

どれだけお金を稼ごうが、自分の好きなことを仕事にできようが、美味しいものを食べれようが、いいクルマに乗れようが、大きな家に住もうが、どれだけ贅沢したとしても、

人間である限り悩みは、一生頭から離れない。
それを踏まえたうえで、どう悩みや不安と上手く付き合っていくのか?
無意識ながらも自分は、我慢したり時には人と会話し、解決してきたのかな。

黙って支えてくれている人が、そばにいてくれること。自分を理解してくれるひとが、一人でもいること。愚痴を聞いてくれる人がいること。一緒に泣いたり笑ったり、考えたりできる人がいること。欠点を教えてくれる人、刺激を与えてくれる人も。

少なからず、人は悩みや不安を抱えながら生きている。
それでも幸せであると感じることができるのは
決して自分だけの力だけでは無くて
人と交わっているからだ。

自分はそんな環境の中で育ってきたってことを、誇りに思いたいし大切にしたい。
そして、これを大きな武器として。

『デタラメと呼ばれた君の自由の翼はまだ閉じたままで眠っている』

まだまだこれから。どんな生活が待ってるか楽しみに思えてきた。

Mr.myself

とりあえず新年一発目の日記。遅すぎですが、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

さて、最近の悩み。悩みって程でもないがよく考えていることについてちょっと書こうと思います。

4月から働く上で何が大切なんやろうとか考えてる中で見つけた一つの答えは、『自信を持つこと。』つまり、自分のなかに確固たる軸を作り上げるということです。

では、その自信や軸を作りうるモノとは何なのかと考えると、人と喋ることや本を読むこと、映画を見ること、音楽を聴くこと、旅行に行くこと・・といった事柄であり、言うなれば今まで生きてきた中で色んなものを五感で感じて吸収して、ちょっとずつ育くまれてできたのが、今の自分である。

そう考えると、今の自分に自信が無いと考えるのは今までの人生の過ごし方自体に問題があったのかと考え込んでしまう。しかし、過去は変えられないしそこまで悲観的になっているわけでもない。

しかし、自分には自信が持てない。もう少し言うと、何が正しいのかが分からない、あらゆる物事に対して自分でどのように判断したらいいのかが分からない。もちろん、物事を白か黒かの二元論で考えるのはよくないことであると分かっているつもりやけど、かと言って自分の価値観を信じてやれないのにも困っている。

世の中の人々が、それぞれの感覚と価値観を武器に電車で、マクドで、もちろんTVや本の中でも議論を繰り広げる。内容の如何に関わらず、自分の意見をどれだけ言えるかに重点が置かれている気がする。

自己主張が激しいのである。自分が目立ちたいからなのか、集団の和の中に入りたいからなのか、考えている事自体に酔っているのか、それは分からないが、自分もしくは自分の属する集団への美意識が高いように感じられる。

ちょっとはこうやって自分に自信を持てればとも思う。が、もちろん「聞く耳」ってのは新しい刺激を引っ張り込むためにモチロン持っていたい。

理想は、「自分の価値観を抱きながらも固執することなく、他人の意見を上手く取り入れ、成長をしていく」といったところ。いやはや難しい。ようは自分で、バランスとりなさい、って話なのかもしれない。

世の中には一長一短ってことが多々ある。美味しいとこ、楽なとこだけとって、辛い部分は捨てるなんて都合の良い方法はなかなか無いだろう。さらに、自分や世間が一つの価値観だけに染まるってこともないから、将来の自分もきっと一長一短を感じているんであろう。

これだけ世の中に情報が溢れ、個人個人が自ら考える余裕を持っている世の中では、なかなか安定した自分を手に入れるのは難しい問題なのではないかと思う。情報に流され、人の見る目を気にするから、どうしても自分の価値観だけを信じて動くってことがなかなかできない。

気がつけばさっきから同じ事の繰り返しや。結局考えがまとまらんかった・・ただ、自分の中の大切なものだけは崩れぬよう、崩さぬように、社会人生活を送れればなと思います。眠いので、中途半端やけど、この辺で失礼します。

サヨナラ2006

あっという間の一年でした。

めっちゃ笑いました。
めっちゃ泣きました。
めっちゃ楽しみました。
めっちゃへこんだりもしました。

めっちゃ考えました。
めっちゃ不安になりました。
めっちゃ美味しいもの食べました。
めっちゃ音楽聴きました。

めっちゃたくさんの人に出会いました。
めっちゃ刺激もらいました。
めっちゃ迷惑かけました。
めっちゃ「ごめん」と「ありがとう」を使いました。

こんな感じで、まぁ充実してたかなと思える2006年でした。


『愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの』

情報化社会と言われて久しい。

新聞やラジオやTVってのはもう時代遅れで、世界にはインターネットという力強い武器がある。これさえあれば何だって手に入る気もしてくる。

何だって手に入る気がするから、モノの価値が分からなくなる。

これは情報に限った話ではない。衣服・食べ物・ありとあらゆるモノがどんどん消費されていく飽食の時代。よそから買っても余らして捨てるこの国。

「使い捨て」って言葉はもともとなかったらしい。んで、「もったいない」って言う単語も日本特有のものらしい。

そんだけ今の世の中は満たされてること。
ってならんのは何ででしょうか。

こんだけモノに満たされてて、冬でも暖かくて、ご飯は好きなだけ食べれて、寂しいときは電話ができて、刺激を求めに見知らぬ土地へ旅もできる。少し前からは想像もできない世界でしょう。

でも実際は。不満とか不安がいっぱいの状況で生きてたりする。少なくとも僕はそうです。
なかなか満足は得られない。

すぐ文句・不平不満をクチにしてしまう。自分に対してはもちろん、周りの環境に対してまでそう思ってるところがなんとも情けない。いつからか不快については、限りなく敏感になってしまっている。

どんなに文化や文明が発達したとして、生き方や暮らし方が多様化しても、人間の心はそれほど変わらないと思うのだが。

洞窟で火を焚いていた人間も、京都に都を建てた人間も、戦争で指揮をとった人間も、満喫にこもりっきりの人間も、生理的・機能的に大差はないはずである。

インドに「カーマスートラ」って本がある。いかにしてよりよい性生活を送るか・・みたいな本。

古代インドでは青年期までに知識・知恵をを身に付け(アルタと言う)、大人になってからは性愛、官能的な素養を深め(カルマ)、老年になってから宗教的・道徳的な教養(ダルマ)を順に身に付けていくのがよいとされていた。

キリスト教世界では禁欲が進められていた時代、インドでは恋や性愛についてもタブーがなく、むしろ積極的に学ぼうという姿勢があった。

現代の日本では、学問や道徳ってのは多少の問題があることはここではおいといて、ある程度の水準で教えられている。ところが性についての理解・教育というのはどこかしらタブーがあるのではないか。

卑猥なビデオと友人からの情報を頼りに挑んでは、失敗と学習の繰り返しではなかろうか。人生において、ある意味最も必要で最も悦ばしい知識が欠けている。これだけはなかなか手に入らない。

生きていく上で喜びを見つけにくくなってしまった現代。幸せとはなんでしょうか。分かりにくい。当たり前に思ってることが当たり前じゃなくなったときに気がつくでしょう。

性に関する喜びというのは、何千年も前から変わっていない気がする。時代が変わっても同じ事しか、人間はできない。

幸せや喜びは、目の前に転がっているかもしれません。

あぁ大学4回生

さて今日から12月。朝なんかはだいぶ寒くなって、冬らしくなってきた。それでもイルミネーションは綺麗やし、街の人達の装いも手伝って、雰囲気は悪くない。

何気ないことやけど、最近よく幸せと不安について考える。別に幸せ⇔不安という事は言いたいのではなくて、「何が幸せなんかな」とか、「この不安がなくなればいいのに」とか、そんなありがちな事に頭を巡らせてはモヤモヤしてる。

不安の原因はなんやろうか。人間関係だったり就職のことだったり、もっと大きな意味での将来のこと、卒論の審査落ちたら、とかパーソナルな事柄だけでなくて、社会的なもの、いじめの問題、虐待する親、教育の方向性が見えないこと、汚職事件の数々・・頭を悩ませることが多い。

本で読んだけど、日本人って世界で一番思い悩んでしまうらしい。経済的にめちゃめちゃ豊かな国やけど、自殺者数は世界一位。ちなみにフィジーには過労死って言葉は無いらしい。

あとついでに面白かったのを紹介しておくと、米国では、日本で使われているようなニュアンスでの「格差社会」・「勝ち組・負け組」って言葉が無いらしい。それだけ勝手に日本人が「成果主義」に影響受けてしまってるんやろね。

日本人って絶対競争意識激しい。年功序列とかは、競争意識を極力抑え込むためのもんやったと思う。競争が発生すると、あれもせな、これもせな、って仕事仕事になって余裕がなくなる気がする。将来も安定しーひんから、それがますます不安にさせる。

レースに勝った人は経済的に豊かになっても、心も体も疲弊しきってるんちゃうやろか。
レースに負けた人は、自分のその立場に満足できんくてイライラし、金銭的な心配を抱く。
「勝ち組」も「負け組」も幸せになれない社会。

まぁ例外も、もちろんあるやろうけど。

不安は大きくても、幸せになれる条件は案外簡単なもの。自分が大切にしたい人と話したり、仲間と遊んだり、旅行にいって普段とは違うものに触れてみたり。そんなことでリフレッシュする。

社会の仲間入りをしても、ずっとリフレッシュできる環境が欲しいし、心に余裕も持ちたい。働いてばっかりで息抜きがないと、とてもじゃないけどやっていかれへん。

と、先にいいわけを作ってしまう就職を控えた大学4回生の戯言でした。遊びいってきます。

Traveling

最近、友人の日記を眺めてると、どうも海外関係の日記が多い。

アメリカに行っただの、南米に行っただの、ヨーロッパに行っただの・・
中国に留学してるだの、フランスに留学してるだの・・
日記は知らんけど、スイスに暮らしてるやつもおる。

暮らしてるのは別として、この時期海外旅行行けるのうらやましい。
そんな金どこにも無い。誰も貸してくれん。てか、卒業旅行も危うい・・

海外はまぁ行けたらええかーくらいで思ってたけどやっぱり最後やしなんとか行きたい。でも日本でゆっくりのらりくらりしたいってのもある。一時期は海外志向高かったけど、今はだいぶ落ち着いた気がする。おかげでモチベーションも下がりTOEICは全く勉強せぬまま受けることになりそうだ。

旅行の話に戻す。
先日、黒部ダム・名古屋に行ってきた。景色も気温も食べ物も初体験ばかりで刺激的やった。あんなダム作った日本人はほんますごい。初めての味噌カツは、居酒屋のんとは全然ちゃうかった。

海外でも日本でも旅行は楽しい。行きにくい分だけ、外国の方が価値あるんやろうね。実際、旅行では文化に触れ合うってレベルまではなかなかできひんし。表面のいいとこしか分からん。

昨日は京都に紅葉のライトアップを見てきた。めっちゃ綺麗。よー分からんけど、日本の文化とか伝統とか、大切にしてきた趣きってめちゃめちゃええやんと感激した。あんな綺麗なもん、海外行ってもなかなか無いと思う。

海外にもええとこはいっぱいある。ただ、日本にもいっぱいある。海外に出ていこうとする前に日本のことをもっと知りたいと再確認。
ただの、海外旅行に行けない人の言い訳でした。

oasisのベスト&The Beatlesの「LOVE」、購入しました。
細かいことは語りませんが、とりあえず「LOVE」はすでに聴きまくりです。世間は賛否両論あるようやけど、総てが発売されたから生まれた自分にとっては「新作」は楽しみやって、それを楽しんでる感じです。ちょっとはリアルタイム世代の「いい意味で裏切られた」が分かったかもしれません。