『愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの』

情報化社会と言われて久しい。

新聞やラジオやTVってのはもう時代遅れで、世界にはインターネットという力強い武器がある。これさえあれば何だって手に入る気もしてくる。

何だって手に入る気がするから、モノの価値が分からなくなる。

これは情報に限った話ではない。衣服・食べ物・ありとあらゆるモノがどんどん消費されていく飽食の時代。よそから買っても余らして捨てるこの国。

「使い捨て」って言葉はもともとなかったらしい。んで、「もったいない」って言う単語も日本特有のものらしい。

そんだけ今の世の中は満たされてること。
ってならんのは何ででしょうか。

こんだけモノに満たされてて、冬でも暖かくて、ご飯は好きなだけ食べれて、寂しいときは電話ができて、刺激を求めに見知らぬ土地へ旅もできる。少し前からは想像もできない世界でしょう。

でも実際は。不満とか不安がいっぱいの状況で生きてたりする。少なくとも僕はそうです。
なかなか満足は得られない。

すぐ文句・不平不満をクチにしてしまう。自分に対してはもちろん、周りの環境に対してまでそう思ってるところがなんとも情けない。いつからか不快については、限りなく敏感になってしまっている。

どんなに文化や文明が発達したとして、生き方や暮らし方が多様化しても、人間の心はそれほど変わらないと思うのだが。

洞窟で火を焚いていた人間も、京都に都を建てた人間も、戦争で指揮をとった人間も、満喫にこもりっきりの人間も、生理的・機能的に大差はないはずである。

インドに「カーマスートラ」って本がある。いかにしてよりよい性生活を送るか・・みたいな本。

古代インドでは青年期までに知識・知恵をを身に付け(アルタと言う)、大人になってからは性愛、官能的な素養を深め(カルマ)、老年になってから宗教的・道徳的な教養(ダルマ)を順に身に付けていくのがよいとされていた。

キリスト教世界では禁欲が進められていた時代、インドでは恋や性愛についてもタブーがなく、むしろ積極的に学ぼうという姿勢があった。

現代の日本では、学問や道徳ってのは多少の問題があることはここではおいといて、ある程度の水準で教えられている。ところが性についての理解・教育というのはどこかしらタブーがあるのではないか。

卑猥なビデオと友人からの情報を頼りに挑んでは、失敗と学習の繰り返しではなかろうか。人生において、ある意味最も必要で最も悦ばしい知識が欠けている。これだけはなかなか手に入らない。

生きていく上で喜びを見つけにくくなってしまった現代。幸せとはなんでしょうか。分かりにくい。当たり前に思ってることが当たり前じゃなくなったときに気がつくでしょう。

性に関する喜びというのは、何千年も前から変わっていない気がする。時代が変わっても同じ事しか、人間はできない。

幸せや喜びは、目の前に転がっているかもしれません。